ニッキ きくちそう
町の真ん中に異星人の宇宙船が落ちたのは、夏の終わりのことだった。
ところで、夏の終わりとは具体的にいつを指す言葉だろうか。夏の終わりと呼ぶために、細かい時期の規定はあるのだろうか。
そんなことよりも、目の前の問題は徹夜明け2日ぶりにアパートに帰ろうとする私の前に立ち塞がる警備会社の人と、その従僕たるカラーコーンの群れである。
「ごめんな、こっから先は入られんのよ」
警備会社の人は私を押し留めようとする。
アパートはすぐそこだし眠くて仕方がない。
そろそろ気温も上がってくる時間帯だ。一刻も早く帰りたい。気温が1℃上がれば、帰りたさも1℃上がるのが道理だが、努めて冷静に対応するのが大人の嗜みである。
「えっ、通行止め?工事ですか?」
さっきからなぜかニッキの匂いがする。
ほんのり甘くて、耳の奥がかゆくなるような特徴的な匂い。
よく見ると目の前の警備会社の人は軍手を装着した両手に生八つ橋を何枚も持っている。
「詳しいことは言えんしわからんのやけど」
これは一体どういうシチュエーションなのか。
警備会社の人が、重ねた両手に生八つ橋をごちゃっと乗せたまま、肘で私の胸のあたりをぐいぐいと押してくるのだ。
服に生八つ橋が触れそうになるので、少々大袈裟に後ろに避ける。
「いや、僕、この先に住んでるんですけど」
「ダメダメ。ダメや。悪いけども許可証がない人間は通すなと上から言われとるんや」
学生の頃は夏休みの終わり頃を夏の終わりと感じていた気がするが、今となってはよくわからない。印象としては少し乾燥している。おかげで気温が高くても夜の寝苦しさはそうでもない。たまに肌寒いこともある。夏の終わりとはそんな季節だ。しかし今は真っ昼間であるし、警備会社の人が手に持った生八つ橋は、太陽の熱と軍手の下から伝わるであろう体温と手汗の湿気でニッキの匂いを力強く周囲に拡散させている。実に不快。
上とは何のことだろうか。会社か。町か。まさか国か。許可証なんてどこで。
「何はともあれ、今ここは通られんから他の道を探してくれ」
「え?他の道からなら行けるんすか?」
「知らんよ、多分全部通行止めや。でもとにかくここは通られんから」
「責任者は」
「わたしらは責任者が誰かも知らんよ」
それは仕事としてどうなのか。無責任なものである。
ちょっとした疑問だが、ニッキとシナモンは別物なのだろうか。同じか。ただし、「生八つ橋のシナモン」と言われるよりは、「生八つ橋のニッキ」と言われた方がしっくりくる。だからどうした。
彼ら警備会社の人たちも通行人を通さないのが仕事だろうから、許されたこと以外は言えないし知らないのだろうが、それ以上に何も知らないこちらとしては腹立たしい。
だいたいなんだ。手に生八つ橋ごっそり持ったままって。それは私物なのか。誰かにもらったのか。落ちていたのか。支給品ではあるまい。そもそも両手が生八つ橋で塞がっていて仕事になるのか。なるわけないだろう。警備って何だ。諦めないことか。腹減ったな。
私と警備会社の人の間を、また別の警備会社の人が「通るよー」と言ってすり抜けていく。ヘルメットに貼られた名前の丸ゴシックすら腹立たしい。寝不足と空腹は、通行止めと反応することによって人を凶暴にするのだ。がおーっ。
「どうしても通れないんですか?」
「無理や。こっちも仕事やから通すわけにはいかんし。ここだけの話、かなり危ないらしいで」
「危ないらしいでって言われても。家に帰れないのは困りますよ。すぐそこなのに」
「わたしらも詳しいことは知らんからな。ごめんなぁ」
「はあ、まぁじゃあ仕方ないですね」
と、簡単に引き下がるとでも思ったか。
一度来た道を戻るふりをして何歩か歩いてから、左足を軸にして回転するように勢いをつけ走り出す。今や強烈なニッキ臭の塊となった警備会社の人の横を一気にすり抜け、二つ、三つ、とカラーコーンにわざと手で触れて倒す。カラーコーンはバコンとかべコンとか情けない音を立てて、地面に転がる。久しく全力で走っていないが、ここら辺は中途半端な若さがまだものを言うはずだ。
それにしても、アパートの部屋以外にどこに行けと。会社?あんなところ帰りたくもない。実家?勘弁してくれ。とにかくマイルームマイ布団だ。愛しの平たい布団が私を切ない声で呼んでいるのだ。待ってろ、今行く。
路地を入って、さらに加速する。
止まれ待てと後ろから聞こえてくるので、警備会社の人が追いかけてきているのはわかる。
さぁ風だ。俺は風になるのだ。徹夜明けのテンションだ。舐めんな。風の後は寝になるのだ。
ぺちゃっ。
「うえっ?」
思わず声が出て、息が乱れ上半身が仰け反る。私のうなじの辺りに何か柔らかいものが当たったのだ。あまりに気持ち悪い感触に全身が硬直しそうになるが、走るのを止めるわけにはいかない。もし捕まったらアパートに帰れないどころかどうなるかわからないわけで。
しかし、次々と背中やお尻に柔らかいものが当たる。おいおい、大したコントロールじゃないか。何を投げて…この微かに香る刺激臭。
まさか。これは。まさか。
振り返ると、警備会社の人が恐ろしくも険しい顔で私を追いかけながら、絶妙なコントロールで生八つ橋を投げ付けてくるのが見えた。何で。
走るのに精一杯で避けられない。
そして、とうとう後頭部に生八つ橋が当たる。なぜか途端に膝に力が入らなくなり、前のめりで滑り込むように、顔から地面に倒れこむ。アスファルトのごつごつが右頬にめり込む音が、まるで他人事のように聞こえ、それから埃とニッキの匂いが鼻の奥を突き、血の鉄くささと混ざる。空と道路が何度か交互に見え、ついに天地すらわからなくなり、意識が遠退く。アパートまであと100mもないのに。
閉じようとする瞼の隙間を、迷彩服の緑色が通り過ぎた気がした。
町の真ん中に異星人の宇宙船が落ちたのは、 夏の終わりのことだった。
その宇宙船が、昔「キョート」と呼ばれていたところに寄ってから町に来たことを知っている者は少ない。
きくちそう
めっきり秋らしくなってきましたが、めっきりという言葉のめっきり感が気になって何を書こうと思っていたか忘れてしまいました。ちなみに、最近約2年半ぶりに福祉屋さんを始めました。
縦割り行政や民間委託の弊害を書こうと思ったわけではないですし、京都をdisっているわけでもありません。
顔は思い出せなくても、においだけは記憶から離れない、そういうのって、ありますよね。